七福神のこと間違えずに答えられますか?それぞれの物語・逸話をまとめたので、勉強しましょう!

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七福神は七つの幸福を授かり、七つの災難を遠ざけてくれるというとても縁起のいい神様です。寄せ集めのように作られた七福神ですが、それぞれの神様には由来や逸話があるのです。一つずつ読んでみてください。きっと知らなかったことがあると思います。

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七福神とは

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幸福をもたらすという7柱の神様をいいます。ちなみに「柱(はしら)』とは、神様を数える時に使う言葉で、七福神の場合、7柱(ななはしら)と言います。

この7柱の神様は、日本古来のものではありません。「神話」と「ヒンズー教」と「仏教」の神様が混ざっているのです。室町時代ころから広まったのですが、現在に伝わる七福神にしっかりとまとまったのは、江戸時代だと言われています。

七福神のメンバーを改めてご紹介しますね。

  • 恵比寿(えびす)
  • 大黒天(だいこくてん)
  • 毘沙門天(びしゃもんてん)
  • 布袋(ほてい)
  • 福禄寿(ふくろくじゅ)
  • 寿老人(じゅろうじん)
  • 弁財天(べんざいてん)

それでは、神様を順番にご紹介していきます。

「恵比寿(えびす)」大量豊作、商売繁盛の神様

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七福神の中で、唯―日本の神ですが、古い書物に名前がいっさい出てこない神様なので、生い立ちが諸説あります。

蛭子尊(ひるこのみこと)が海に流されたという説

一説によると、伊弊諾尊(いざなぎのみこと)、伊弊舟尊(いざなみのみこと)の間に生まれた蛭子尊(ひるこのみこと)といわれています。三歳になっても歩けなかったので海に流したとされ、その子がどこかの海岸に流れ着いたのではないかという説です。

漁村では、外海から流れ着いたものを「海神」と呼ぶ信仰や、イルカやクジラを「いさな」「えびす」と呼び、これらが現れると豊漁になるとか、これらが入り江に迷い込むと「寄り神」が来たと喜ぶ習慣がありました。外海から流れ着いた蛭子尊も、同じように受け入れたのかもしれません。

毎年、十日戎で福男選びを行うことで有名な西宮神社は、蛭子尊を祀る「えびす神社」の総本社としても有名です。関西では「西宮のえべっさん」と呼ばれて商売の神様として有名です。

釣り好きな事代主神(ことしろぬしのかみ)だったという説

もう一説は、事代主神(ことしろぬしのかみ)とする説です。しかし、神話においては水と関係する神様ではないのです。ただ、一部分釣りをしているところが書かれていて、どうやらそこからきたようです。事代主神は大国主神(おおくにぬしのかみ)の息子です。

昔、日本は大国主一家が治めていましたが、なかなか治めきれていない状態でした。天津原からそれを見た天照大神(あまてらすおおみかみ)が、国を治められるのは自分の子孫しかないと主張し、出雲の大国主に国を引き渡すよう使いを出します。

使いの神が、大国主に会って国譲りの気持ちはあるかと尋ねます。大国主はまず息子たちに聞いてくれ、自分の考えはその後で伝えるというので、使いは息子の事代主を訪ねます。事代主は釣りが好きだったようで、そのときも釣りをしていました。そこで事代主と海の神が結びつき、恵比寿様になったという説です。釣竿と鯛を抱えているのはこのときの姿だそうです。

恵比寿様は、烏帽子(えぼし)に狩衣(かりぎぬ)、右手に釣り竿、左脇に立派な鯛を抱えた姿で描かれ海から来た神様として、漁民の守護神でしたが、後に商いの神にもなり大漁豊作、商売繁盛のご利益があるとされています。

留守神として地域を守る

また、留守神としても有名です。留守神というのは、八百万の神々が出雲大社に集まる神無月、出かけないで留守を守るという神様のことです。これは、蛭子尊の足が不自由だったという説から、遠出が出来ないとされているからだそうです。

「大黒天(だいこくてん)」商売繁盛、五穀豊穣の神様

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大黒天というと、打出小槌を右手に持って、とても大きな袋を左の型に背負っています。そして、笑顔で米俵に乗っていますので、温和な神様のイメージです。しかし、モデルになったインドの大黒天(マハーカーラ)は、恐ろしい姿をした破壊の神・戦闘の神なのです。

もともとは破壊・戦闘の神様

マハーカーラは、ヒンドゥー教の3主神(プラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ)の中の一柱でシヴァ神の化身とされています。

サンスクリット語のマハーカーラを漢字にあてると摩訶迦羅となり、摩訶迦羅天とも呼ばれます。マハーは大いなる、カーラは黒・暗黒を意味していて、世界が破壊されるときに恐ろしい黒い姿で現れる神とされています。

形相は恐ろしいのですが、勇猛で身を挺して人を救済する神として、また、不老長寿の薬を持つ神としてインドでは信仰されています。一説には、黒い毒が海に広がり地球が滅亡の危機にさらされた際に、マハーカーラがその毒を飲んで地球を救ったと言われています。毒を飲んだマハーカーラは青黒い体になったということです。

ではなぜ、このような神様が日本では温和な福の神になったのでしょう。

ヒンドゥー教には三神一体という考えがあり、初めは別々の三柱の神だったのが、ある時代から同じ一柱の神であるとされているからです。戦闘の神マハーカーラは同時に、財福の神ヴィシュヌであり、冥府(あの世)の神プラフマーだとされるようになったのです。

日本では最澄が初めに祀った

日本には、中国から入ってきましたが、マハーカーラの3つの性格の中の「財福」が強調されて伝わったとされています。インドでは、マハーカーラを財福の神として台所や食堂に祀っている場合もありますが、日本では最澄がはじめに祀ったと言われ、比叡山延暦寺で台所の守護神となり、以降に広まったされています。

やがて、大黒(だいこく)が大国に通じることから、神道の大国主(おおくにぬし)と混同され、マハーカーラと大国主が合わさっていきます。

最初は、破壊と豊穣の神として、後には豊穣の面が残り七福神の大黒様として、食物、財福を司る神様となりました。

大国主命のイメージで笑顔になり、江戸時代から米俵も

入ってきた当初は、恐ろしいお顔でしたが、室町時代に因幡の白兎を助けた優しい大国主命(おおくにぬしのみこと)のイメージを強調して満面の笑顔になり、一般に信仰されるようになった江戸時代には米俵に乗るようになりました。

袋を背負っているのは、大国主がお兄さんの荷物を背負っていた姿からです。現在は、袋の中身は七宝といわれ、金、銀、瑠璃(るり)、玻璃(はり)、硨磲(しゃこ)、珊瑚(さんご)、瑪瑙(めのう)の7種の宝物が入っているそうです。

また、ネズミが大黒天の使いといわれるのは、大国主がスサノオの娘と結婚しようとしたとき、猛反対したスサノオに焼き殺されそうになったのですが、そのときネズミが助けてくれたという話からきています。
大黒天は台所の神様として、のちにカマドの神様として浸透していきますが、同時に商売繁盛、五穀豊穣の神様としても信仰されるようになりました。

また、民間信仰としては、子宝が授かるといわれ、米俵に乗った大黒天の像が男性器を表しているそうです。これは像の後ろ姿を観察するとすぐに理解できるらしいです。

大黒柱も大黒様から

大黒様といえば、「大黒柱」とも関係があります。大黒柱は、家の中心にある柱で、そこから転じて家族を支えて中心になる人のことを指します。大黒柱は、土間と座敷の間の柱で、昔は土間が厨房だったので、この柱は台所とも隣り合わせになっているということから、台所の神様がいらっしゃる柱として、大黒柱と呼んで大事にしたところからきています。


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「毘沙門天(びしゃもんてん)」戦闘の神から福徳・商売繁盛の神様へ

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もともとは弱々しい神様だった

もともとはインド神話に出てくるクベーラという富と財宝を司る神様で、別名ヴァイシュラヴァナとも呼ばれています。温和な性格で、弟にこん棒で殴られて卒倒したという話が残っているほど、戦闘的イメージはまったくない神様です。

この神様が、中央アジアや中国から日本へ伝わるときに、武神・守護神としての信仰に変化し、四天王の一柱になったと考えられています。毘沙門というのは、ヴァイシュラヴァナの音を漢字で表したものですが、その意味は「よく聞く所の者」という解釈もでき、「多聞天(たもんてん)」とも訳されました。

ちなみに四天王とは、帝釈天(たいしゃくてん)の優れた部下たち四柱のことです。領土を守り人々を安心させてくれる、東を守る持国天(じこくてん)、「浄天眼」といわれる特別な眼で世の中を観察し人々を導く、西を守る広目天(こうもくてん)、生育・増長する力を持ち五穀豊穣を司る、南を守る増長天(ぞうちょうてん)、説法の場を整える役割で人々を見守る、北を守る多聞天(たもんてん)からなり、日本にも仏教とともに入って来た歴史の古い信仰です。今でも、一つの分野に優れた四人を四天王と呼んだりしますね。

ではなぜ、毘沙門天だけが単独で祀られるようになったのでしょうか。

鎌倉時代から戦国時代にかけては四天王のリーダーとして戦闘の神様と扱われていた

毘沙門天は「説法の場を整える」役割で、財宝富貴を司る神ですから、他の武神より戦闘力もなさそうです。モデルになったインドのクベーラも弱そうな神様です。

じつは、そのころの中国の侵略の争いは、常に北の方角だったのです。日本においても、蝦夷が住む東北を攻めることが重要でした。そこで、北を司る毘沙門天を信仰したのです。鎌倉時代には、毘沙門天は守護神として最強であり、四天王のリーダーとしての信仰が始まります。そして、名将といわれる武将たちが毘沙門天(多聞天)の化身、あるいは生まれ変わりだといわれることで、ますます毘沙門天の単独信仰が高まりました。

後に、武将たちがムカデは多くの足でも、足並みは乱れず果敢に素早く前に進み決して後ろへ退かない点を好み、武具甲冑や旗印にムカデの図を用いたところから、毘沙門天(多聞天)の使いがムカデとなったと考えられています。こうして、武道、戦闘の神として祀られていた毘沙門天(多聞天)ですが、なぜ福の神になったのでしょう。じつは、はっきりとわかっていないのだそうです。

毘沙門天は、憤怒の形相で唐の武人装束を着ています。左手に宝塔、右手に金剛棒か三叉戟(さんさほこ:先が三つになった槍)を持ち、二体の邪鬼を踏みつけている姿で表わされます。その姿から、武将たちが戦闘の神として信仰したのは納得できますね。

庶民の間では商売繁盛の神様とされてきた

じつは一方で、庶民の毘沙門天信仰は平安時代の鞍馬寺からとされています。ここは、古くから市(いち:露店などの集まった市場)が栄え、商売をする人が集まりました。そこで鞍馬寺のご本尊である「毘沙門天」の、もともとの性格「財福の神様」という面が広まって信仰されるようになったようです。市場で祀られていたことから、商売繁盛の福の神として信仰されるようになり、恵比寿、大黒と共に人気の神様になったのだそうです。

また、聖徳太子が戦の勝利を祈願したところ、寅の年・寅の月・寅の日・寅の刻に毘沙門天が虎を従えて現れた夢をみたことから、当初日本では虎を毘沙門天の使いとしていたようです。現在では、虎もムカデも毘沙門天の使いとされています。

毘沙門天の像は、足で邪鬼を踏みつけているのですが、この邪鬼は天邪鬼(あまのじゃく)と呼ばれています。仏教の教えやそれを信じる人にわざと害を及ぼす邪鬼のことで、毘沙門天の鎧の腹部にある鬼の面がモデルだといわれています。今でも、人の心を知りながらあえて逆らうひねくれ者のことを天邪鬼といいますね。

「布袋(ほてい)」弥勒菩薩の化身、子宝、富、円満の神様

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実在の僧侶と言われている

布袋様は、七福神の中で唯一実在したといわれる伝説の仏僧です。

唐の時代に生まれ916年に亡くなったとする説がありますが、本当のところは出生地、本名などの記録はなく、亡くなった次の日に別の町で見かけた、などと不思議なことの多い人物で仙人説もあります。

本来の出家名は釈契此(しゃくかいし)といいますが、いつも袋を背負っていたことから布袋と呼ばれていました。大きな太鼓腹で背は低く、額や鼻にしわを寄せて満面の笑みを浮かべた姿は愛嬌があったようです。お寺に定住せず、あちこちを泊まり歩いて施しを受けていたといわれています。

布袋様に関する逸話はいろいろありますが、たとえば次のようなものです。

  • 雪の中で寝ていても、布袋和尚の身体だけ雪が積もらなかった
  • 布袋和尚の占いは必ず的中する
  • いつも18人の子供を連れていて、もらった施しを分け与えるために、生臭い魚や肉もかまわずもらった

いずれにせよ、天衣無縫に生き、天真爛漫で童心を忘れない人だったようで、大人にも子供にも好かれる存在だったのでしょう。

亡くなるときの文書で弥勒の化身説が

亡くなる時に残した文書があるのです。その文は「弥勒は真の弥勒にして分身千百億なり、時時に時人に示すも時人は自ら識らず」と記されていたそうです。

これは、「真実の弥勒菩薩(みろくぼさつ)には何億もの化身があり、その時代時代の人に姿を変えて現われるけれども、人々は気づかず知らない」という意味です。

この文から、中国では布袋が弥勒菩薩の化身だったのではないかといわれるようになり、信仰されるようになりました。また、縁起のいい画題として布袋の絵を描くことが流行りました。

ちなみに弥勒菩薩は、兜率天(とそつてん)という場所にいて、仏陀が亡くなってから五十六億七千万年たったとき、地上に降りてきて人々を救済するとされている仏様です。

日本でも好まれた布袋様

布袋は日本でも水墨画の画題として好まれ、その福々しい姿がどんどんデフォルメされていき、室町時代には福の神になってしまったようです。

ふくよかな体の布袋様は、広い度量や円満な人格で、富貴繁栄を司り、金運招福、人格円満、指導者の才能・智慧明瞭といったご利益があるそうです。背負った袋は、大黒様のような福袋ではなく、諸国を放浪した時に受けた施しが入っているという説と気の長い寛容の精神が入っている説があります。

また、この袋を「堪忍袋」といいます。堪忍袋の緒が切れるとは、この袋の結び目が切れるという意味で、我慢できる許容量を超えて、怒りが爆発することのたとえです。また、右手に持っているのは「軍配(ぐんばい)」で金運、勝負運を強めるのだそうです。

「福禄寿(ふくろくじゅ)」招徳人望、長寿、財産の神様

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福禄寿は、頭部が異常に長くて不思議な容貌をしている神様です。おもに鶴や亀を伴い、杖を持って描かれ、人望をつかさどる福の神とされています。

本来は3つの神様のチーム

中国の道教から生まれた神様で、日本では一柱の神様としていますが、本来は福星・禄星・寿星の三星をそれぞれ神格化したもので、三柱一組の道教の神様たちのことで、いわばチーム名になります。

  • 「福星」は木星のことで、裕福な官服を着た黒髪の気品にあふれた姿で三人の中心に描かれます。
  • 「禄星」は大熊座のミザールのことで、豊かさを表すお金や赤ちゃんを抱いた姿で描かれます。
  • 「寿星」は竜骨座のカノープスのことで、中国では南極老人星と呼ばれ、禿げた長い頭に白ひげをたくわえた老人で、豊穣と長寿を表す桃と吉祥の鶴や亀を描かれることが多いようです。

三徳を表す福禄寿

福禄寿は、中国人が人生の三大目的とする三徳を表しています。

  • 福(血のつながった子供に恵まれる)
  • 禄(財産)
  • 寿(健康を伴った長寿)

この全てを兼ね備えた徳の高い神様として、中国ではとても信仰されていました。今も春節には、福禄寿の三柱の神様の絵を飾る家が多いです。

日本での福禄寿の姿は、三柱を合体させて一柱に創り変えています。一番インパクトのある寿星の外見をとって、背が低く、長い頭に長い髭、左手に宝珠を乗せ、右手に巻物を結んだ杖を持ち、長寿のシンボルともいえる鶴や亀を伴っていることが多いようです。

また、この「寿星」が単独で日本に伝わったのが寿老人だといわれているので、福禄寿と寿老人を同一視されることもあります。

日本では星を神格化することが盛んではなかったので、七福神の他のメンバーのように福禄寿のイメージを膨らませることもなかったようです。鶴亀と老人という容姿から長寿の神様のように見えますが、中国から伝わったまま三徳の性格をもつ神様で、招徳人望の神様として信仰されています。

「寿老人(じゅろうじん)」長寿・財産・富貴の神様

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寿老人は頭巾をかぶった老人の姿で、杖の先に巻物を結びつけたものを持ち、1500年生きている牡鹿を伴って描かれています。不死の霊薬を入れた瓢箪、手に不老長寿の桃と難を払い去る団扇を持つこともあります。人々の安全や健康を守り、長命、富貴、与宝、種々の病を治す神なのです。

寿命を司る「南極老人星」の化身

中国では寿命をつかさどる神様と言われ、老子の化身、または南極老人星の化身とも言われています。八百万(やおよろず)の神を信仰する日本ですが、星を神格化することは少ないので、福禄寿と共にあまりなじみのない神様です。

杖の先の巻物は、一人一人の人間の寿命の長さを記したものだそうです。また、鹿は玄鹿(げんろく)と呼ばれ、玄鹿を干肉にして喰らえば二千歳の長寿を保つという道教の教えからきたもので、やはり長寿の象徴とされます。

中国では、常に星の動きを調べ、人間の運命は星によって左右されると考えていました。この南極老人星というのは、現在ではカノープスと呼ばれていますが、吉祥の前ぶれといわれ、赤みがかって見えるので、青白く光る「若星」に対して「老人星」といわれました。また、この星が人間の寿命を司ると考えられていたのです。

姿は中国の占い師がモデル?

北宋時代、自分こそが老人星の化身という老人が都にあらわれました。身長がわずか三尺(約90センチ)で、二頭身(頭と体が同じ大きさ)だったといわれています。占いで生計を立てていて、収入があると酒代にあてるような酒豪だったということです。中国の寿老人の容貌は、その占い師がモデルになっているそうです。

日本でもそのまま、中国の寿老人を描いています。違いは背の高い頭巾を被せているところでしょうか。「福禄寿」を、寿老人をモデルにして創ってしまったので、苦肉の策で頭巾を被せたのかもしれませんね。日本には中国から水墨画の絵として入ってきたのが、縁起の良い絵だと評判になり、やがて長寿延命、富貴長寿の神様として信仰されるようになったのだと思われます。

「弁財天(べんざいてん)」音楽・芸術・財産の神様

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七福神のなかで唯一の女神様で、琵琶を弾く妖艷な姿で現される弁財天(弁才天とも書く)は、もとはインドのヒンドゥー教、サラスヴァティー川という聖なる川の神でした。

サラスは水、ヴァティーは富むという意味で豊穣の神、あるいは川のせせらぎの音から音楽や弁舌に優れているとされ、福徳神、学芸神、戦神など幅広い性格をもつ神として信仰されていました。中国での漢字表記は弁才天だったのですが、日本では財宝神としての性格が生まれ、弁財天と表す場合もあります。

仏教の守護神として武器を持って日本へ伝わった

奈良時代に仏教の守護神として日本に入って来たのですが、のちに神道にも取り込まれたため、神話に登場する水の神「市杵嶋姫命(いちきしまひめ)を弁才天とする神社が現れます。ですから、日本では寺院と神社の両方に祀られる独自の特長を持っている神様です。

伝来した弁才天の容姿は、八臂像(はっぴぞう)といって8本の腕を持ち、それぞれの腕に弓、矢、刀、矛(ほこ)、斧、長杵、鉄輪、羂索(けんさく:投げ縄)を持ち、それらはすべて武器でした。これは、悪神阿修羅と戦った姿とされていて、そのころの経典には「人々に弁才、無尽の智恵、財宝、延命を与え、悪夢・邪気・呪術・鬼神など人を惑わすものを排除し、病苦や疾病、闘争などからも遠ざける」と書かれています。たおやかな女神様というより、容姿も性格も、勇ましく頼もしい神様という感じです。

やがて、鎌倉時代になると二臂(にひ)の弁才天が祀られるようになり、天女のイメージの衣をまとい、音楽の神様らしい容姿になります。なお、現在よく知られる片膝を立てて妖艶に琵琶を弾く姿は、室町時代に七福神に加えられたころからです。

室町時代から蓄財の神様へ変わっていく

七福神のメンバーになったのは、室町時代の僧、比叡山の最澄が「大黒天・毘沙門天・弁才天」が合体した三面大黒天の像を祀っていたという伝承に由来します。しかし、同じ比叡山で弁才天は宇賀神(うがじん:顔は人で体は蛇の神様)と同一だという偽の経典が出回り、頭上に鳥居付きの宇賀神をいただく、なんとも奇妙な「宇賀弁財天(うがべんざいてん)」が信仰されるようになります。

ちなみに、宇賀神はウカノミタマという稲の神様で、稲荷や大黒天とも結びついたりしている面白い神様です。弁才天の化身は蛇や龍とされるのはここからきています。

今までの弁才天は、8本の腕に武器を持っていたのに対し、宇賀弁財天は、新たに「宝珠」と「鍵」(宝蔵の鍵)を持ったところから、戦神から福徳神・財宝神の性格が強くなっていき、弁才天から弁財天に表記も変わってきます。

江戸時代になると、七福神めぐりが流行りだし、弁財天のお札をもらうと財産が増えるといわれ、蓄財の神様として信仰されるようになりました。こうして、どんどんサラスヴァティーの性格から離れていったのですね。

ただ、水神という性格は受け継がれ、井戸やため池の治水工事の際や、島や港湾の入り口などに弁天堂や弁天社をたてて祀られることが多いです。変遷がありましたが、現在は音楽・弁才・財福・知恵の神様として、とくに安芸(あき)の宮島・琵琶湖の竹生島(ちくぶしま)・江の島を三弁天といって信仰されています。

まとめ

七福神にはそれぞれの成り立ちがあることがわかっていただけたと思います。未だになぞの部分も多くありますが、そうったミステリアスな部分も、七福神の魅力といえると思います。

知識を持って七福神巡りをしてみるのもいいのではないでしょうか。


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